あなたと変えたい、目黒の未来を!!』これが私の基本姿勢です。もちろん私一人でできることは限られていますが、広く区民の皆様の声に耳を傾け、衆知を集め的確な判断と実行力で必ずや輝く目黒区の将来を実現してまいります。さあ元気な目黒に向けて一緒に進みましょう。


■目黒区青少年委員 五期
■目黒区立碑小学校PTA会長(平成元年〜四年三月)
■目黒区少年団体連絡協議会副会長
■東京都知的障害者育成会 評議員
■都立青鳥養護学校PTA会長
■自由民主党目黒総支部総務副会長など
  歴任後、平成十五年区議会議員初当選
■家族:妻、息子1人、娘2人、孫3人
■趣味:スポーツ全般、読書、オペラ・クラシック音楽鑑賞
■好きな食べ物:ラーメン、肉、中華全般


【常任委員会】
●文教委員会 ●企画総務委員会 ●議会運営委員会
●生活福祉委員会 ●都市環境委員会

【特別委員会】
●環境整備対策調査特別委員会 副委員長 ●再開発・街づくり特別委員会
●行財政特別委員会 副委員長

1943年4月30日 東京都台東区浅草に将校の長男(2人兄弟)として生まれる。
9歳の時、埼玉県北足立郡大和町(現和光市)に移住。新倉小学校・大和中学校で学ぶ。 埼玉県立川越高校(映画ウォーターボーイズのモデルとなった高校)に進学。部活では野球部・陸上部をかけもちし、共にキャプテンを務める。また、この頃には生徒会長も務め、会長選挙の際にはさながら現在と同じように「たすき」を架け選挙活動(?)を行っていました!

大学は早稲田大学理工学部へ進学。名門・早稲田の野球部員として活躍を誓うも、練習中の大怪我が原因で半年で退部。熱中していた野球で初めての挫折を味わい、そのまま大学も中退。 中退後、貿易関係の仕事を志していたある日、早稲田時代にお世話になったゼミの教授からの進言を受け、経済学を学ぶべく富士短期大学(現東京富士短期大学)に再入学。国際経済をイチから学びました。

大学を卒業後、商社へ入社。念願叶い貿易部へ配属され、10年に亘り実務に携わる。その後、「商社志向」から「メーカー志向」へと変わり、独立。写真光学機器・教育機材のメーカー兼輸出入会社を設立しました。 アメリカの大手メーカー・スリーエムのOEMで、世界最小のポータブルオーバーヘッドプロジェクター(OHP)を開発。最盛期には100人以上の社員を抱える会社の社長として、日々奔走していました。

ちょうど同じ頃、目黒区碑文谷に移住。自分が道半ばで諦めざるを得なかった野球への夢を地域の子ども達へ託すべく、少年野球チーム「碑文谷クラウンズ」のコーチを務める。それをきっかけに、町会役員や住区の副会長、教育委員会の青少年委員、PTA会長等、様々な役職を歴任。それぞれの活動を通し地域の課題を目の当たりにし、後に区政を志すきっかけとなりました。

当時、地元出身議員がいなかった碑文谷地区において、地域の声を区政に届けるスポークスマンとなるべく、そして会社経営で培った経営感覚と国際感覚を地域のために活かすべく、ついに目黒区議選に立候補。皆さんのご支援を賜り、平成15年めでたく初当選を果たしました!
1期目から行財政特別委員会副委員長をはじめ要職を仰せつかり、目黒区のため、地元碑文谷のために日々奮闘。平成19年には2期目の当選を果たし、現在に至ります。

私の政治家としての一番の目的は「未来ある子ども達と、時代を築いたお年寄り達が、健康で安心して暮らせるまちづくり」。 学生時代スポーツで培った体力を活かして、25年間毎日碑地区の朝のラジオ体操に参加し、朝礼台で指揮をとらせて頂いています。おかげで地域の子ども達からは、議員としてより「ラジオ体操のおじさん」として知られているようで、親御さん達からも子育てについてのご相談を受けることも。 そんな私の一番の喜びは、大きくなった子ども達の成長を見守ること。小さかった子ども達が大人になり、結婚式に呼んでくれたり、子連れで挨拶に来てくれるときは、本当にこの活動を続けていて良かったと実感します。 肩書きは一応「政治家」となっていますが、私自身はあくまで区民の代弁者だと思っています。これからも区民の皆様の声を区政に反映させるべく奔走しますので、ぜひお気軽に声をおかけください!